聖書のみことば
2023年7月
  7月2日 7月9日 7月16日 7月23日 7月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月23日主日礼拝音声

 主の御名
2023年7月第4主日礼拝 7月23日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章7節

<7節>あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

 ただ今、出エジプト記20章7節をご一緒にお聞きしました。
 7節に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」とあります。十戒の中の3番目の言葉です。これは一体どんなことを語っている言葉でしょうか。あまり慌てて答えを出してはならないと思います。

 こういう戒めを聞かされますと、私たちはつい、あれがそうではないか、これもそうではないかと、「主の名をみだりに唱えている」と思われる幾つかの例を数え上げたくなります。けれども果たして、そのように幾つかを数えて済ませてしまってよいのでしょうか。少し気になるのです。というのも、ここには「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と言われた後、更に「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」という、非常に厳しい警告の言葉が付け加えられているからです。これは、どうしてでしょうか。
 明らかに、神はここに戒められている事柄を私たちが常日頃、非常に軽く考え、主の名を気軽に扱っていることを御存知なので、このように語られているのだと思います。神の御名を軽く扱うようなことをしているとしても、神は独り子をさえ惜しまずに与えて下さった大変気前の良い方なのだから、私たちの罪を大目に見てくださるに違いないと、私たちが簡単に考えがちであることを、神はよく知っておられるのです。それで、この3番目の戒めにはこのような警告が付け加えられています。主の名を軽く扱うことは、ひいては神その方御自身のことを軽く考え、軽んじることになるからです。「あなたは、この点では間違ってはならない。神さまは決して侮られ、軽く扱われて黙っているような方ではない」ということが、ここにはっきりと警告されています。

 この警告の言葉を意識して受け止めますと、ここに警告されている罪は、普段私たちがさほど重大だと思っていないけれども、しかしその実、非常に重い罪なのだということが知れてくると思います。何よりもこれは、神御自身を侮り、神との強い交わりを私たちが自ら断ち切ってしまうような罪だからです。しかもそれでいて、この罪を犯している当人は、自分がそのような罪を犯していることに少しも気づかず、ごく仔細なことでしかないように考えてしまうのです。
 従って、ここに警告されている罪は、私たちの側からすると隠れた罪とでも呼べそうな罪です。罪には、私たちがはっきり罪だと気がつく罪の他に、少しも気づかないうちに犯してしまう罪もあるのです。ですから、詩編19編の中で詩人が祈っているような祈りも生まれてきます。詩編19編13節に「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください」とあります。この詩人は、自分の気づかないうちに、知らないままに罪を犯してしまうということに気づいていますが、しかし実際に犯している時には気づかないのです。気づかずに犯してしまうのですから、これを自分の努力で避けることはできません。しかしそれは間違いなく罪ですから、神と人間との間柄を引き裂き、人間をむしばみます。そのまま放置すれば、やがてはこの詩人はすっかり罪に支配されて、神から完全に引き離された者となってしまいます。そうならないように、「どうか自分の内に秘かに入り込んでいる罪を明らかにして下さい」と詩人は祈るのです。罪が明らかにされてそこから離れることができ、清められ神のものとなって生きることを、この詩人は願います。「わたしの内にある隠れた罪に、どうか神さま、気づかせてください。離れさせてください」と祈っているのです。

 さて、そのように私たちの気づかないうちに私たちの内に入り込み、内側から私たちをむしばむような罪があることを憶えた上で、では、ここに言われている「主の名をみだりに唱える罪」というのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。それは例えば、神の御名を茶化して嘲るようなことなのでしょうか。確かにそれも典型的な罪と言えるでしょう。ですがそういうことであれば、それは誰にでも分かることですから、隠れている秘かな罪にはならないでしょう。
 では、「主の名をみだりに唱える」とは、どういうことなのでしょうか。

 このことを考えるために、少し廻り道をするようですが、この出エジプト記の初めの方に語られている、ある出来事を思い起こしたいのです。モーセが主から召し出された時の出来事です。少し長いのでかいつまんで話しますと、モーセが羊の群れを追ってホレブの山までやって来た時、そこで神とお会いすることになりました。燃え尽きない柴の中から、神が突然モーセにお語りになり、「エジプトにいる同胞の苦しみをつぶさに見、叫び声を聞き、痛みを知ったので、お前を遣わすことにする。モーセよ、お前はエジプトの王ファラオと交渉して、イスラエルの人々をエジプトから連れ出す者になりなさい」と、だし抜けにお命じになりました。その時モーセは、神の御命令のあまりの重さに押し潰されそうになりながらも、お答えしました。出エジプト記3章13節に「モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言えば、彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか』」とあります。
 モーセはここで、神の名前をお尋ねしています。それはどうしてでしょうか。この問いについてしばしば語られる説明は、古い時代の人々は神の本当の名前を知ることができれば、いつでもその神の名を呼んで思いのままに神に助けてもらうことができると考えていたという説明です。アラビアンナイトのアリババと盗賊たちの話で、アリババが「開けゴマ」と言いさえすれば宝のありかの扉が開くことになっていたのと同じように、神の名を呼びさえすれば神がいつでも都合よく現れてくださる、だから古い時代の人たちは神の名前を知りたいと思っていたのだと説明されます。確かにそうなのでしょうが、しかし、私たちにとっては何とも腑に落ちない説明だろうと思います。モーセは神を思いのままに操りたいと思ったのでしょうか。
 実は、この箇所でモーセの尋ねている尋ね方に、一つの鍵があります。モーセは、もし自分がエジプトの同胞たちの許に行って、「わたしは神さまからあなたがたの許に遣わされたのだ」と言ったら、聞いた人たちは、「その名は一体何か」と尋ねるに違いないと言いました。けれども実は、「その名は一体何か」という問い方は、普通に名前を聞く時の尋ね方ではないのです。それは、日本語ではなく英語に直すとよく分かります。英語で普通に私たちが誰かに対して名前を尋ねる時には、「Who are you?」と尋ねます。「あなたはどなたですか」という問いかけです。それに対して、この箇所では「What are you?」と問いかけています。これは名前ではなくて、その相手の本質、あるいは正体を尋ねる問いかけです。「あなたは何者なのか」と尋ねる時に、英語では「What are you?」と尋ねます。モーセがエジプトに下ったら、きっと同胞から尋ねられるに違いないと思った問いは、神に対して「Who are you?」ではなく「what are you?」と尋ねる問いでした。ですからここをよく注意して読みますと、「その名は一体何か」と翻訳されているのです。神の名前の字面を知りたいのではなく、神の本質を捉えようとする問いが、「その名は何か」という問いなのです。

 しかしこれは、まことに高慢で身勝手な人間の要求ではないでしょうか。ただ神の御名を呼び求めて救って下さるように願うというのではなくて、神の本質を捉え、そして神に向かって「あなたはカクカクシカジカという性質の方なのだから、私たちを助けなくてはならない。助けるのが当然だ」と主張できるようになるために、その名を知りたいと言っている、それが「what are you?」という問いなのです。
 このように身勝手で高慢な問いをする者たちに対しては、神は御自身の名前を知らせたり、身を明かしたりしなくても良いのではないでしょうか。こういう高慢な人間たちは、さっさと見限ってしまって、奴隷暮らしのまま放っておかれるのが良いのではないでしょうか。親切に救い出してやっても、また、神に対して無礼で高慢なことをきっと言い出すに違いありません。こういう人間たちは、そのまま滅びるに任せるのが良いのではないでしょうか。正直にそう思います。しかし神はこの時、どうなさったでしょうか。
 驚いたことに、神はモーセのこの問いに対して、御自身の名前を示し、御自身がどのような方であるかを明かしてくださいました。続きの出エジプト記3章14節に「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」とあります。
 神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と御自身の名前をモーセに明かされました。それもモーセが望んだとおり、神が御自身の民に対して「どのような方でいらっしゃるのか」、その本質がある面、分かるような仕方で、御自身の名を明かしてくださいました。「わたしはある」というのが、その名前です。英語で言えば「Ⅰam.」「わたしはいる」という言葉です。そしてこれは新約聖書になると、主イエスがしばしば弟子たちにおっしゃった言葉でもあります。弟子たちが嵐に襲われ不安になっている時に、「心配するな、恐れるな、わたしだ」と主イエスはおっしゃいました。神は御自身の名前を伝えることで、御自身の民を見限らないということを教えておられるのです。どこまでも「あなたがたはわたしの民だ。わたしはあなたがたの神である。あなたがたに伴う」と言ってくださるのです。それが「わたしはある」という名前の意味であり、そして神はそのように行動してくださいます。遂には最愛の独り子を十字架に掛けて犠牲としてまでも、高慢で聞き分けのない者たちをなお、御自身の民として招き、持ち運ぼうとしてくださるのです。

 神の御名について、ついでにもう一つ申し上げますが、イスラエルの人々は神の名前を「ヤハウェ」と知りました。ただ、「ヤハウェ」と呼ぶことは畏れ多いので、聖書の中でその名前が出てくる時には、ヘブライ語で「主人」を表す「アドナイ」という言葉に置き換えて神の名を発音しました。けれども、本来の「ヤハウェ」という言葉は、神がここでモーセに答えてくださった、「わたしはある」という名前から由来していると言われています。「わたしはある」、「わたしはいる」という言葉は、ヘブライ語で「イヒーエ」と発音します。この「イヒーエ」という言葉が変化して「ヤハウェ」という名前が生まれました。ですから、旧約聖書の中で「主」と出てくる「ヤハウェ」と呼ばれる言葉は、もともと「わたしはある」、「あなたと共にいる」ということを表す名前なのです。

 このように、神が御自身の名前をイスラエルの民に明かしてくださっていることを思いながら、もう一度、今日の3番目の戒めを考えたいのです。「わたしはある」というのは、神が御自身の民に対して与えて下さった「一つの約束の言葉」です。それは人間の言いなりになって、人間の側の都合によって、その名を唱えさえすればいつでも自由に呼び出せるという意味ではありません。そうではなく、神は、「わたしはあなたと共にいる者だ」とおっしゃってくださっているのです。神はいつも私たちと共にいてくださるのです。
 ですから神の名は、アリババの呪文のように、人がそれを唱えればいつでもそこに都合よく現れるというものではありません。神は、御自身の民といつも共にいて下さいます。しかし、神がいつ、どのような仕方でモーセやイスラエルの人々をお助けになるかは、神御自身がお決めになることです。そういうお方として、神は、「わたしはある」と御自身の名を明かしてくださっているのです。

 また、「主」「わたしはある」という名前について、神はイスラエルの民に次のようにも教えておられます。出エジプト記33章19節に「主は言われた。『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ』」とあります。「主」は、「わたしはある」という言葉がもともとの意味ですから、ここでは「『わたしはあなたと共にある』という名前をもう一度、あなたたちに宣言する」と言っておられるのです。そしてそこで「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と言われます。これは、神が人間をごく気ままに扱うとおっしゃっているのでも、時には意地悪をするとおっしゃっているのでもありません。人間を憐れみ恵んでくださる時に、神は御自身の配慮に従って人間を扱って下さる、そういう方として「わたしはある、ヤハウェだ」と宣言しておられるのです。

 さてこのように、神が「わたしはあるという者だ。あなたと共に歩む者だ」と言ってくださり、神の名がそういうものだと確認しますと、今日の3番目の神の言葉「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めの意味も分かってくるのではないでしょうか。これは、私たち人間が、自分たちの都合のために神を利用しようとすることを禁止している言葉です。それは、必ずしも自分個人の利益のためばかりではありません。先にモーセが神の名を尋ねた時のように、どんなに高潔に思える事柄のためであっても、人間が自分の企てや目的のために神を利用する時には、この第三の戒めに触れる可能性は高いのです。
 私たちは、ややもすると、自分の願いや思いを先立たせ、それを何でも気前よく聞いてくれそうな神を持ちたがります。聖書を読みますと、確かに神は私たちと共にいてくださると記されていますからそう思ってもおかしくはないのですが、しかしそれは、私たちの意のままに動き、私たちの役に立ってくれる神ということではありません。私たちはそういう神を求めたがるのですが、しかしそういうあり方こそが、この3番目の戒めに戒められているあり方なのです。

 そしてそのように神を求める時、私たちは、聖書に語られている真の神に従っているのではなく、自分にとって都合の良い神、すなわち偶像に従っていることになります。従って、この戒めは、第一の戒め、第二の戒めと根っこのところで繋がっているのです。
 そしてこれは、私たちにとって大変重い戒めです。この戒めになぜ警告の言葉が付け加えられているのかと言いますと、この罪は、神を知らない人、信じない人が犯す罪なのではなくて、自分では神を知り、信じていると思っている人が、自分の都合のために神を操ろうと思ってしまう、そういう罪に対しての警告だからです。「間違ってもあなたがたは、そういう過ちを犯してはならない」と戒められています。

 しかしここまで考えてきますと、ふと疑問を抱かれるかもしれません。「神さまが人間の思い通りにならないのであれば、私たちにとって神さまは何の助けにもならないのだろうか」という問いです。私たちがそれぞれに抱える家庭の悩み、仕事の悩み、社会の問題などに対して、神は何もなさらないのでしょうか。それ以前に、私たちを用いて下さらないのでしょうか。
 そんなことはありません。神は私たち一人ひとりを覚えておられ、御心のままに用いてくださいます。また、確かに私たちを支え、役立ってくださいます。しかしそれは、私たちの計画や私たちの意に添う仕方でというのではなく、あくまでも神御自身の御心に沿った形で、神の御計画に従って、助けてくださるのです。
 神御自身は、私たちのために力となり、支えとなり、楯となってくださいます。「わたしは主、ヤハウェだ。わたしはあなたと共にいる」と言ってくださるのです。けれども神は、どのようにして私たちと共にいることを示してくださるのでしょうか。その時、私たちは主イエス・キリストというお方を覚えるべきだろうと思います。神はどのようにして私たちに出会おうとしてくださったでしょうか。私たちが神から離れて彷徨い、神抜きで生きて惨めな生活になってしまいそうな時に、神はそういう私たちを憐れみ、共に歩んで下さるために、私たちと共に歩むお方として、独り子である主イエスを送ってくださいました。
 しかも主イエスは、十字架にかかって、私たちの罪を十字架の上で精算してくださいました。十字架を見上げる時、私たちは、罪を赦され神のものとされ、力と慰めとをいただいて生きるという希望が与えられます。「神さまは主イエス・キリストを通して、私たちと共にいてくださり、力を与えてくださる」、このことを覚えたいと思います。

 主イエス・キリストの贖いの御業を知り、罪の赦しを知るときにこそ、私たちは、「神さまの憐れみと慈しみがいつも私たちと共にある」ということをはっきり知るようにされます。

 主イエス・キリストの十字架の下に置かれ、十字架によって神との交わりを回復されていること、罪を赦されて新しい命に生きる者とされていること、このことに信頼する者とされて、ここからそれぞれに歩み出したいのです。お祈りを捧げましょう。

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